加賀前田百万石の支藩 七日市藩(前田藩)
七日市藩の成立
1616年(元和2)、前田利家の5男、利孝(トシタカ)は、前田利家の謀反なき証として、幼少時に江戸で人質として暮らしますが、大阪夏の陣の功績により、甘楽郡18ケ村(10,014石)を与えられ七日市に陣屋を築きます。 (3万石以下なので天守閣いわゆるお城は持てませんでした)以後 、七日市藩として、廃藩置県までの12代を存続させます。七日市藩初代藩主前田利孝が入封した1616年(元和2年)頃の記述を見ると、七日市は、加賀前田家の分家であること、分家の者が藩主をつとめる加賀藩の支藩であることが分かります。 これらの地は1601年(慶長6年)~1619年(元和2)迄は、水野忠清(徳川時代の前の小幡藩主)が支配していた地域と重なる部分が多かったようです。

七日市藩は二代目以降は大阪定番:駿河定番
藩祖利孝(としたか)は、前田利家の正室と江戸で人質(利孝の異母兄利長が家康暗殺の嫌疑をかけられたため)のような生活をしていましたが、大阪の冬・夏の陣で徳川方で出陣し 、軍功をあげたため 1616年(元和2年)上野甘楽郡に10,014石を与えられました。以後明治まで250余年の12代にわたり在封し、石高の変更はありませんでした。七日市藩前田家は代々、大阪定番と駿府定番を務めました。(大阪定番とは大阪城番とも言い、1~2万石の小大名が大阪城代の下で付く職。定員2名で大阪城の守備に就く。鉄砲、弓、具足奉行を支配した。) 戊辰の役(戊辰戦争)では会津藩の討伐に加わっています。2代以降②利意、③利廣、④利慶、⑤利英、⑥利理、⑦利尚、⑧利見、⑨利以、⑩利和、⑪利豁、⑫利昭1869年(慶応5年)版籍奉還で最後の藩主の利昭は藩知事となります。 利昭は成器館を文武学校と改称し、さらに軍務局をはじめとする藩政改革を行ないました。1871年(明治4年)の廃藩置県で七日市藩は廃藩となります。その後、七日市県を経て、群馬県に編入されました。
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七日市藩の位置
初代利孝の築いた七日市陣家は1869年(明治2年)の七日市村の絵図で示させている通り広い敷地を有し、陣家の中には藩主を始め重臣の屋敷も建てられています。 陣家総面積:約36,223坪で富岡製糸場の2倍強でしたが、現在は住宅になっていたりして、20%位が群馬県立富岡高等学校となっています。
