韮塚直次郎は蒸気エンジンフランス式36繰りの製糸場を立ち上げ経営します

韮塚直次郎製糸場

左の写真は宮内庁書陵部が所蔵しているもので、説明には「韮塚直次郎製糸場」と有ります。 なぜこのような小さな都市の製糸場の写真を宮内庁が所蔵しているのでしょう? 明治天皇は全国各地に行幸して、その発展ぶりを視察しています。 その際、写真師を同行させ明治11年の北陸東海地方の巡行の際には、群馬県は高崎において「上野名勝写真」75枚の写真を献上しています。 このようにして、39道府県に及びこれを編集して「明治の日本」という写真集を刊行しています。 群馬県から献上された写真には2つの特徴があります。1つは、教員養成の師範学校や臨時教員養成の「鏑川学校」(現県立富岡高校)の他13の小学校。 もう一つは、官営富岡製糸場の他11の民間製糸場です。この2分野で全体の36%を占めていますので、群馬県がいかに教育と製糸に力を入れているかが判ります。

現在の韮塚直次郎製糸場跡

上の写真は、富岡市が2017年に取得した、富岡市の城町通り(富岡製糸場の東通り)にある建物です。 宮内庁書陵部所蔵の写真と比べて見ると、写真の角度が少し違っていますし、だいぶ劣化が進んで越屋根もなく、煙突も有りませんが、それ以外は大きな変化は有りません。 この建物が、韮塚直次郎製糸場跡です。 では、この建物は何時建てられたのでしょうか?「群馬県養蚕沿革調査書」には、「明治9年10月群馬県甘楽郡富岡町韮塚直次郎は富岡製糸場に倣い製糸器械一坐を装置し工女36人をして製糸せしむ」と有ることから 設立時期は明治9年10月でフランス式36人繰りで有ったことが判ります。 又、「上野国郡村誌」にも字城にあり韮塚直次私立東西25間、南北18間、面積450坪、明治9年開場の器械製、概ね官立に同じ。 蒸気機関を以て動かす。工男女は45人、糸の製造は年間324貫(1,250kg)と記されてあります。 明治6年の地積図では、「田島宇志所有地で447坪」と有り「上野国郡村誌」とほぼ一致します。 この事からも、当地が韮塚直次郎製糸場跡であると断定できます。 参考までに、同年度の富岡製糸場と韮塚直次郎製糸場の生産高を比較してみましょう。 会計年度は7月から翌年6月までとし、富岡製糸場は12,451.7Kg工女数で比較しますと460対54人で、年間1人当たりの生産量は27.1対22.5Kgとなり、開業初年度としては結構頑張った数値と言えます。

建物の検証

富岡市では建物の状況を調べるために建物調査設計業務委託共同企業体に調査を委託しました。その結果、調査報告書が提出されました。 まず現状の立面図と断面図を描き、古いやの切断などから現在は付いていない越屋根が図に示すような形で付いていたことが確認できたのです。ここまで確認できればいや応なく韮塚製糸場跡と言わざるを得ません。 ただもう1つ確認することが残ります。それは西側の建屋が2階建てになっていることです。製糸をするためには繭倉庫が必要となります。また良繭をり分ける空間も必要となります。 さらには工女の宿舎も必要です。韮塚製糸場の多くの工女は後に記すように滋賀県から入場していますので当然宿舎があったはずです。2階建てはこれらのためのものと言えましょう。 糸をとる繰糸所は繭を煮る釜、糸をとる釜などがあって室内の湿度が高いため蒸気を抜く越屋根や多くの窓を付けて湿度を下げる工夫をしています。また、窓が多いのは採光のためでもあります。富岡製糸場の場合は、床面に煉瓦を敷き詰めて働く環境を整えていました。 このような面を調査するため、富岡市教育委員会では毛野考古学研究所に委託して発掘調査を実施しています。まず建物の床板をはがして床面の調査を始めたところ、床面は単なる土間ではなく一面に漆喰を張り、その上に煉瓦を敷き並べた状況が確認されたようです。 これは富岡製糸場と同じ様式です。ただ、富岡製糸場の床面は煉瓦の上にセメントモルタルを張っているために煉瓦下の状況は不明ですが、煉瓦下には漆喰が張られていた可能性があります。 また、床面中央には東西に長く溝が切られている状況ですので繰糸後の汚水を流すための溝の可能性があります。 既に明らかにしているように韮塚製糸場はフランス式製糸器械36人繰りを導入していますので、これが東西一列に設置されたと思われます。ただし、フランス式製糸器械とはいってもフランスから購入したという記録はありません。これについては後に触れます。 床面の発掘調査中に写真に示したような小皿が出土しました。明らかに韮塚製糸場用の食事に用いた小皿であるといえます。実は富岡製糸場の旧賄所(食堂のこと)裏の棄て穴からも文字文様は異なりますが同じような大きさの小皿がたくさん見つかっています。 もう1カ所明らかにしなければならない場所があります。それは蒸気エンジンを動かしたり、各繰糸機の釜に蒸気を送るボイラーが必要となります。 このボイラーを焚く燃料は富岡製糸場と同じく石炭のようです。このための排煙装置が煙突です。宮内庁所蔵の写真によると、建物北東隅に煉瓦積みのかなり高い煙突がみえます。 富岡製糸場の場合はフランスから輸入した鉄製の輪を何段もボルトでつなぎ合わせて総高約36メートルにしていますが、韮塚製糸場では煉瓦造でした。富岡製糸場と比較すると製糸器械の数も少なく、蒸気の出力も少なかったはずですので煙突の高さを低くしても問題がなかったものでしょう。 写真に写る煙突は操業停止後に取り壊されましたが、跡地には最近まで処分できなかった煉瓦が多数残されていました。煉瓦を調べると富岡製糸場とまったく同じ刻印のものもありました。 富岡製糸場の煉瓦は韮塚直次郎が責任者として焼き上げたものです。このように富岡製糸場と韮塚製糸場は韮塚を通じて深い関係があることが分かります。 発掘調査は煙突の基礎部と推量される地下遺構の煉瓦積みが確認されました。しかし、ボイラー室や煙道に関わる施設の正確な状況を把握するまでには至っていないようですので、今後の調査が待たれるところであり、現在は富岡製糸場と全く同じ刻印の発見と煙突部分に関係した遺構の確認されたことというところで留めます。 この後は機械が有れば紹介していきたいと思います。
参考資料:富岡市発行・広報とみおか「市内の歴史的建造物」2017年3月~7月から転載
画像提供:富岡市 富岡製糸場

 

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