シーボルト事件
シーボルトは文政11年(1828年)帰国の際に、幕府天文方、高橋景保(作左衛門)と交流を深め、日本地図や蝦夷地の地図を入手します。(大日本沿岸輿図全図・葵紋付き衣服等)高橋景保もシーボルトの持つ貴重な情報が欲しく、ロシア関係の書物や地図との交換を条件に地図(大日本沿岸輿図全図)を渡し国禁を犯してしまいます。 シーボルトが帰国間近に禁制品を持ち帰ろうとしたことが発覚し、翌年文政12年(1829年)国外追放となりました。 一方の高橋景保は捕らえられ文政12年(1829年)獄死しますが、遺体は塩漬けにされ、瓶に入れられ保存されました。 1年後に吟味が終了し、『存命に候えば 死罪仰せ付けるものなり』と判決が下ります。 国禁を犯すとは、それほどまでに重い罪だったのです。 多くの関係者(50名)も処罰される事になるります。 これがいわゆる「シーボルト事件」と言われているものです。 シーボルトは長崎滞在中、文政9年(1827年)にオランダ商館長に付添い江戸を訪問しています。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト

シーボルト事件と稲部市五郎種昌(いなべ いちごろうたねまさ)
稲部市五郎種昌 天明6(1786)年~天保11(1840)年稲部は長崎出島のオランダ通訳官で、オランダ商館付きの医師「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト」が最も信頼していた通訳でした。 シーボルト事件の関係者の中に、稲部も含まれていました。 彼はシーボルトと高橋の間を取り持ち、通訳した罪で捕らえられ、江戸に護送されます。 その後、永牢を申しつけられ、七日市藩・前田大和守利和に預けられます。 七日市藩は罪人とはいえ、身分の高い人なので、急遽牢を新設し、稲部を迎えます。 永牢の身となった稲部は、牢番等との会話は禁じられていましたが、七日市藩の藩医であった畑鉄鶏(文化11(1814)年~文久2(1862)年)だけが面会を許され、藩に病人が出ると、畑鉄鶏は西洋医学にも精通していた稲部に教えを乞います。 稲部は快く蘭学や西洋医学を伝授し藩医等に大きな影響を与えたといわれています。 稲部は天保11年(1840年)8月(永牢11年間)牢内で病死しました。 七日市藩の藩主(前田大和守利和)は、七日市の金剛院(七日市藩の総鎮守だった蛇宮神社の別当寺)に手厚く葬りました。 明治元年に恩赦で稲部の罪は消えています。
稲部種昌先生の碑
上信電鉄上州七日市駅(群馬県富岡市七日市)を出て、旧国道254線に出でる手前左側に、七日市藩の牢屋跡地に「稲部種昌先生碑」が有ります。
医師で国会議員の齋藤壽雄の発案で顕彰碑の建立
齋藤壽雄が84歳の時(1931年 昭和6年)に、時代の先覚者・稲部市五郎種昌の人となりや業績、シーボルト事件を後世に残すため顕彰碑の建設を思い立ちます。 当時の北甘楽郡医師会会員に呼びかけてその浄財を集め、現在、私たちが目にする立派な稲部種昌先生の顕彰碑を、七日市藩の牢跡地に建立したのです。 斉藤壽雄の友人である、東京慈恵会医科大学初代学長・金杉英五郎が、その碑文を書いています。 そこには、稲部種昌を、「真に国のために身を捧げ、悔いることのなき者であった」とあります。稲部市五郎種昌の墓
稲部は天保11年(1840年)8月(永牢11年間)牢内で病死しました。 七日市藩の藩主(前田大和守利和)は、七日市の金剛院(七日市藩の総鎮守だった蛇宮神社の別当寺)に手厚く葬りました。
齋藤壽雄と稲部市五郎種昌
1847(弘化4)~1938(昭和13) 幕末-昭和時代前期の医師,政治家。小幡藩医 斎藤寿軒の二男として生まれ、19歳まで江戸、渋川、高崎等の塾で学び、20歳のとき、父の後を継ぎ斎藤寿軒を名乗ました。 24歳で大学南校(現東大)に進み医学を専攻しました。 特に博愛主義に徹し梅毒検査法を率先して学びその検査医となり、甘楽第一基督教会が設立された当日に洗礼を受け、以後熱心な信者となりました。 群馬県会議員をへて、明治31年衆議院議員(当選3回、政友本党)。 富岡女学校、甘楽基督教会の設立に尽力しまた。小学校の給食普及にもつくしまた。 一方、推されて県議会議員(4期)や国会議員(3期)等にも当選し政治に力を注ぎました。 また栄養学校長を勤める傍ら、男子は県立富岡中学校があるのに、女子の高等教育の場のないことを嘆き、私財を投じて私立富岡女学校を創設しました。 更に児童の体力増強を目的として福島小学校に栄養給食制度を導入するなど多角的な活動を続けましたが、根底には常に博愛主義が生きていまた。 廃娼運動や禁酒運動、幼児教育にも力を注ぎ、富岡の神社の境内にてキリスト教主義の教育を行うことには無理があり、1933年(昭和8年)に立ち退きを迫られます。 廃娼では、キリスト教議員とともに議会にて議決し建議書を、群馬県冷の楫取素彦に提出しています。 昭和13年2月17日死去。92歳でした。 検疫官、北甘楽郡立病院副院長、郡衛生会会頭、郡教育会会長、群馬県医師会会長、医師購買組合理事長、信用販売生産購買組合長などを歴任。 一方、小幡村議、北甘楽郡議、群馬県議を経て、明治31年から衆院議員(政友本党)に当選3回。

参考文献:上毛新聞(三山春秋) 市川みどり著 郷土の偉人 齋藤壽雄 ウィキペディア
画像提供:富岡市 富岡製糸場