富岡製糸場 工女 和田 英(わだ えい)
和田英 著 富岡日記
富岡製糸場へ工女として入場した時の経緯が詳しく書かれています。
私の身元
私の父は信州松代の旧藩士の一人でありまして、横田数馬と申しました。明治六年頃は松代の区長を致して居りました。 それで信州新聞にも出て居りました通り、信州は養蚕が最も盛んな国であるから、一区に付き何人(たしか一区に付き十六人) 十三歳より二十五 歳までの女子を富岡製糸場へ出すべしと申す県庁からの達しがありましたが、人身御供に でも上るように思いまして一人も応じる人はありません。 父も心配致しまして、段々人民にすすめますが、何の効もありません。 やはり「血をとられるのあぶらをしぼられる」のと大評判になりまして、中には「区長の所に丁度年頃の娘が有るに出さぬのが何よりの証拠だ」と申すようになりました。それで父も決心致しまして、私を出すことに致しました。 私も兼ねて親類の娘が東京へメリヤスを製しますことを習いに行きました時、私も行きたいと申しましたが、私より下に四人の弟妹がありまして、中々忙しゅうありましたから許しません。残念に思って居りましたところでありましたから、大喜びで、一人でも宜しいから行きたいと申しました。母はその時末の弟を妊娠して居りました(後で承知致しました)。 さぞ迷惑であったろうと後になりましてから思いました。しかし父がそのように申しますから何とも申しません。 第一許さぬと申しはせぬかと心配致しました。祖父は大 喜びで申しますには、「たとい女子たりとも、天下の御為になることなら参るが宜しい。入場致し候上は諸事心を用い、人後にならぬよう精々励みまするよう」 と申されました時の私の喜びは、とても筆には尽されません。さてこのようになりますと可笑しいもので、よいことばかり私の耳にはいります。 あちらへ行けば学問も出来る、機場があって織物も習われると、それはそれはよいこと尽し、私は一人喜び勇んで日々用意を致して居りますと、河原鶴子と申す方がその時十三歳になられますが、 「お英さんがおいでなら私もぜひ行きたい」と申されましたとのことで、父君もお許しになりました。 いよいよ両人で参ることになりました。(鶴子さんの父君は北越戦争の時松代藩より出陣の折、総大将で若松城に乗込んだ方であります。) 右様に取極めましたが、私はその前年当家(和田)へ縁組致します約束だけ致してありましたから、当家へも右の次第を話しますと、幸い主人も東京へ1-2ヵ月内に学問修行に参る心組のところでありましたから、承知してくれました。その時姉が一人ありまして、初子と申しました。 姉もまた、「お英さんが行くなら私も行きたい」と申しまして、直に行くことになりました。さあこのようになりますと不思議なもので、私の親類の人、または友達、それを聞伝えて、我も我もと相成りまして、都合十六人出来ました。後から追々願書が出ましたが、満員で下げられました。
「富岡日記」より引用
富岡製糸場の工女たち
富岡製糸場にも女工哀史は有ったのだろうか?
1872年(明治5年)から、1893年(明治26年)迄の官営時代には、過酷な労働は無かったと思われますが、1885年(明治18年)には、経営が黒字となり1893年(明治26年)迄黒字が続いていますので、この頃には、伝習期間も既に終りを迎え、生産に重きを 置ています。 「西南戦争」(西南の役 1877年明治10年)で莫大な費用を費やした明治政府は、官営工場を投げ売りしましたが、 富岡製糸場には買い手がつかず、明治政府は払下げに失敗しました。群馬県令の楫取素彦の進言によって売却を逃れたことになっていますが、諸説ありるようです。「赤字の工場は民間企業は買わない」と言うことから立て直しを図ることで、払下げの条件を良くして再び払い下げします。この頃の工場長は3代目 の敏腕工場長「速水 堅曹」が返り咲き、4代目の岡野朝治は赤字決算のため失脚します。 その後三井家、原、片倉の民営時代の工女の資料はきわめて少なく、岡谷やその他の製糸工場と同じような、待遇になっていたかは定かでありません。 私が独自の調査で得た情報では、大正時代に飛騨から岡谷に来て女工をしていた女性数人に聞き取り調査したところ、 「過酷な条件で辛かった」と言う言葉は出ていませんでした。「家にいれば、3度の食事もままならず、起きてから寝るまで働きづめで、風呂にも入れず、お金ももらえず、そのほうがずっと辛い」と言っています。富岡日記でも判るように、各地に製糸工場が建設され創業しますが、設備や条件は富岡製糸場は雲嶺の差で極悪な条件下で糸をとることになります。「ちきりん」(フォロワー170,000以上のツイッター )さんは2014年4月26日に「富岡製糸場って「元祖ブラック企業」じん。 それが世界遺産になるってことに、ブラック企業撲滅運動系のみなさんは、どんなご意見をお持ちなのかな。 やっぱり「絶対反対!」」運動を始めるのかな?とツイートしています。その 後の反応はこちらで確認して下さい。 又、ココに興味あるブログが有りますので、興味の有る方は覗いてみてください。喧々諤々の議論がされています。 日本のおカイコさん-2/富岡製糸場への疑問和田英のその後
和田英は富岡製糸所で1等工女の称号を与えられ、1年5ケ月の伝習を終え、明治7年7月7日故郷松代へ帰郷しています。 埴科郡西条村字六工(ろっく)に建築致された六工社(ろっこうしゃ)製糸場で、富岡製糸場で学んだ技術を発揮しています。 そのことを、「富岡日記」では、次のように書いています。六工社初見物
私共一同は明治7年7月7日故郷松代へ着致しまして、その翌日は宅に居りましたが、その翌日、9日は埴科郡西条村字六工に建築致されましたる六工社製糸場へ一同打揃うて参りました。その道にありました大里忠一郎氏の御宅へ立寄りまして、同氏並びに夫人里子御老母等に御面会致しまして、同氏の御案内で六工社へ参りました。機械その他を見ました。兼ねて覚悟のことなれば別に驚きも致しませぬ。却ってよ能くこの位に出来たと思いました。しかし富岡と違いますことは天と地ほどであります。 銅・鉄・真鍮は木となり、ガラスは針金と変り、煉瓦は土間、それはそれは夢に夢を見るように感じましたが、まずまず蒸気で糸がとられると申すだけでも日本人の手で出来たとは感心だ位にて、その日は引取りました。富岡後期 六工社発見物より引用
参考資料:深谷市HP 深谷市のパンフレット(富岡製糸場と深谷市の偉人達)
画像提供:富岡市 富岡製糸場