官営富岡製糸場へは全国から沢山の工女たちが入場しています。

官営富岡製糸場への工女の県別入場者数

官営富岡製糸場は、模範工場として器械製糸の技術を全国に広めることを目的としたため、工女は全国から募集し、技術習得後は伝習工女として出身地域で指導に当たるこことなっていました。 明治政府は、各県(廃藩置県によって出来た県)に対し工女募集の通達を行いましたが、外国人(フランス人)の技師や指導者が赤ワインを飲むのを観て 「生き血を飲む」「若い娘の生き血を吸う」「油を絞られる」などの噂が流れ、工女が一向に集まらない事態が生じました。これに対し、明治政府は製糸工場の意義と噂を打ち消すために、告諭書を何度も出しています。 以下が論告書の写しです。少し長いですが是非読んで下さい

工女募集の論告書写し 公益財団法人 渋沢栄一記念財団 渋沢栄一伝記資料より

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官営富岡製糸場の工女の入場実態 1873年(M6)~1884年(M17)

スマートフォンでは、うまく見られない場合がりますのでファイルで御覧下さい。
明=明治6年1月~明治17年 数字は人数

この表を見ると、明治9年から滋賀県からの入場が増え、合計でも、地元群馬を抜いて1番となっています。 官営富岡製糸場は、最低462名の工女が必要とされていましたので、慢性的な工女不足でした。 (工女の契約期限は1年~3年でしたので明治8年頃からは、退場者が増えています。)これを危惧した韮塚直次郎(現:深谷市明戸の出身 富岡製糸場建設で、資材集めの責任を持たされ、後に「賄い方」を任せれます。)は、彦根藩士の父を持つの妻(美寧) の縁を頼って工女募集に奔走します。
参考資料:富岡製糸所記・職員録 富岡町入寄留簿 富岡市教育委員会発行「富岡のまち」

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