浄土宗 宮崎山 宝国院 龍光寺
上の写真は浄土宗 宮崎山 宝国院 龍光寺 本堂龍光寺は甘楽郡宮崎村(現在の富岡市宮崎)から移転されたお寺です。元和3(1617)年の検地帳に記載がありますので、それ以前に移築されたと考えられます。 境内の板碑(県指定の文化財)や梵鐘(県指定の文化財)は室町時代の特徴を持っていて、これらも宮崎村から運ばれたもの思われます。 明治6(1873)年の学制によって富岡小学校の仮教場をこの地で開校しています。官営富岡製糸場時代に全国から集った工女の中には、故郷を離れての慣れない集団生活と慣れない労働のため、若くして病に倒れ、この地で夢半ばで亡くなり故郷に帰れない人もいました。 富岡製糸場建設に深く関わった「韮塚直次郎」の妻の美寧(みね)が彦根出身者であったことから、職を失った士族が数多くいた彦根の事情が知り、直次郎と妻の美寧は彦根に赴き工女集めを進めました。こうして、 富岡製糸場には彦根士族の子女達を中心に滋賀県出身者が多数雇われ、その数は明治9年~12年には452人、全工女の約3割に達していましたので、彦根出身者のお墓が多く残されています。 伝染病の「コレラ」で死亡した最年少の「清水 源」(当時9才10ヶ月)は仲間の工女たちがお金を出し合ってお墓を建立したそうです。龍光寺には、明治7年から民営化後の明治34年までの工女の墓が48基余り有ります。 1879年(明治12年)速水堅曹が工場長に就任し改革を行う傍らで、熊本の緑川製糸から速水堅曹が呼び寄せた、副工場長の長野親蔵が暗殺され龍光寺に埋葬されています。製糸場の東の方角にある海源寺にも明治6年~明治9年に亡くなられた工女(2名)工男(1名)のお墓が有ります。
龍光寺の梵鐘
上の写真は群馬県指定重要文化財の龍光寺の梵鐘です。この梵鐘は、無銘ではありますが、竜頭・鐘身・草の間の唐草模様・四行四列の乳の配列などから室町期の鋳造と考えられています。 太平洋戦争時には、金属供出の対象となりましたが、鋳造期が古く優れていたこともあり、その対象から免れたといういわれが鐘身に刻まれています。また、まったく同型のものが長学寺( 富岡市上高尾)にも存在しています。室町期の鋳造が少ないだけに、この期の梵鐘が2つも存在することは、地域的な特性を示すと同時に貴重なものということがわかります。
JA甘楽富岡HPより転載
龍光寺の大イチョウ
富岡市指定天然記念物の大イチョウは、樹高25m、目通し周囲は5mの雌木です。 枝張は東西15m南北14mに及んでいます。樹齢は380年以上と推測でき、今名を生育を確認できるイチョウとしては富岡では有数の巨木です。 このイチョウの木は龍光寺が宮崎村(現富岡市宮崎)から、現在の地へ移った際に移植されたという伝承も有ります。解説盤より転記龍光寺の板碑(いたび)
群馬県指定重要文化財の板碑は、供養塔の一種で139.4cm幅45.5cmの規模で武蔵型板碑です。 中央部分の図様は、胎蔵界大日如来の真言梵字ア・ビ・ラ・ウン・ケンを下から上に言い換えると、上からケンを一字ウン・ラ・ビ・アを相向かいに2文字ずつ五輪塔型に組み合わせて図案化しています。 その上に瓔珞つけた天蓋、五輪塔の下に蓮台刻し蓮台下に「貞治3年甲辰仰月日」と刻まれています。 その左右に「逆修」「聖書」外側には、梵字で光明真言を4行刻み左右に花瓶を付刻ています。 さらに、周囲には三条線の区画内にア・ビ・ラ・ウン・ケンの梵字を配しています。 造立者は不明ですが、逆修の文字が有ることから生前供養として建立したと考えられます。 龍光寺開山の祖である「貞誉上人」が刻まれているのは、追刻です。 紀年銘は北朝年号の貞治3年(1364)ですが、薬研刻の刻法からも鎌倉時代の様式を十分に表現しています。他に類例のない秀作と見ていいと思います。解説盤より転記富岡製糸場関係者の墓
龍光寺には明治7年から民営化後の明治34年までの工女の墓が48基余り有ります。 富岡製糸場建設では建設資材の調達係で後には、自ら製糸場を経営した「韮塚直次郎」や、三代目の工場長時代に副工場長としてその才能を発揮して暗殺された「長野親蔵」や9歳10カ月で命を落とした 「清水源」の墓が有ります。 又洋画家の福澤一郎や初代NHK会長で恐妻家で知られる阿部慎之助の墓も有ります。 丁寧な案内図も有りますのでお参りしてはいかがでしょうか。参考資料:龍光寺のパンフレット:滋賀大学経済学部HP