現在の診療所は1940年(昭和15年)片倉工業時代に建てられた診療所です。

富岡製糸場の主な建物

富岡製糸場の主な建物は、下の図で判るように、東繭倉庫(東置繭所)西繭倉庫(西置繭所)繰糸場の三棟がコの字型に配されています。この三棟は2014年の12月に国宝に指定されました。繰糸場は採光を考慮して南向きに建てられています。 ↓クリックすると画像が拡大されます↓ 富岡製糸場の建物配置図

富岡製糸場 診療所

富岡製糸場の診療所

ココは1940年(昭和15年)片倉工業時代に建てられた診療所です。 当初から3代目の診療所です。富岡製糸場内には当初から診療所が造られていました。 最初の診療所はココではなく、工女の寄宿舎(現在の北側の社宅付近)の近くにありました。 そこでは、フランス人医師が、治療にあたり、治療費や薬代は工場側が負担していました。 厚生面が充実していたことが判ります。フランス人医師たちが帰郷した後は、富岡の医師たちが嘱託で診療を続けています。 工女の一日の労働時間は7時間45分でした。 当初から日曜日は休みで、寄宿舎の制度が取り入れられ、食事も工場側が用意し工女の負担は有りませんでした。 当時の日本には珍しく、近代的な労働環境がつくられていたことが判ります。 こうした制度も、フランスから取り入れたものでした。当初は病院と言っていたようです。

富岡製糸場の病室

富岡製糸場の病室

この病室も、診療所と同じ1940年(昭和15年)片倉工業時代に建てられたものです。病室は診療所を中心に東側と南側になり渡り廊下で繋がっていました。南側の病室には8~10畳の和室が東西に5部屋並んでいます。 南側に縁側が、北側に廊下が付き、東端には洗面所が有ります。寄宿従業員が少々体調が悪く勤務を休む際は、寄宿舎の自室で休むことなく、この病室で過ごしました。 富岡製糸場には当初から病室が完備されていました。明治6年に長野県松代から工女として入場した、横田英(後に和田英)はこの事を「富岡日記」で書いています。

河原鶴子さんの病気 富岡日記より

河原鶴子の父は、北越戦争では松代藩より出陣の折、総大将で若松城に乗込んだ方です。 そんな松代の少女(河原鶴子13歳最年少)たち16名が、明治6年2月26日松代を出発ししています。
以下は「富岡日記」から抜粋
河原鶴子さんの病気 私共一行の人々はその後も一心に勉強して居ましたが、ある日、河原鶴子さんが急に不快だと申されまして、驚きました。 その日は部屋に休んで居られましたが、急に足がひょろひょろすると申されましたから、翌朝病院に参られまして、診察を受けられますと、脚気だとのことで、その日頃から足は立たぬようになられましたから直に入院致されましたが、 追々様子が宜しくありません。 私は休みの時間ごとに見に参りましたが、二日目頃はよほど悪いように見受けました時、私の驚きはとても筆にも詫葉にも尽されません。 初め両人で参るとさえ申した位でありますから、互に力になり合わねばなりません。 私より年は四つ下で、大家に育ち、大勢の人にかしずかれて居られましたことは私が能く存じて居ります。

お富ちゃん殊に脚気はその頃全快せぬとさえ申しましたから、私は泣く泣く部屋長の所へ参りまして、「これから直に私はお鶴さんをつれて帰国致したい、碓氷峠を越せば薬をのまずに全快すると国で申しますから、 何とぞ願って下さい」と申しましたから、部屋長から取締に申出し、また病院へも問合せになりましたが、帰国致さずとも決して命に別条はないと申されまして、その日から私が看病することになりましたが、段々様子が宜しくありません。 食事も進みません。第一足が少しも立ちませんから、はばかりにも私が肩にかけてようようつれて参りまして、子供に手水を致しますように後から抱いて居るのでありますが、何分私も年弱の十七歳、力もありませず、中々骨が折れましたが、 一生懸命で居りましたから格別告労だとも思いませんで、一日も早く全快致されますよう朝夕神信心をして居りました。

只今のように便羅でもありますと、病む人も看病致す私もどのように楽でありましたろう。大小用の度ごとに互に骨が折れました。 が、それは未だ宜しゅう御座いますが、病人の食事は病室へ参りますが、私は自分の部屋へ三度三度に参らねばなりません。 病院は工女部屋の東の端の向うにあります。私の部屋は西の端にありますから、七十五間と十間余、丁度八十五間余の所を往復致さねばなりません。 私は行きも戻りもいつも駆足で、食事致しますにも大急ぎでしまいまして、部屋の人達と話も致さぬようにして戻りますが、待たるるとも待つ身になるなと申す諺の如く、病人は待遠で待遠でなりませんから、 お英さんはお部屋へ行って遊んでおいでなさるから手間がとれるの何のといつも申されますが、私は実につらく思いまして、一人涙をこぼしたことが度々ありますが、思い直して、からだが自由におなりなさらず年も行かぬ人だから無理もないと、 だましすかして慰めて居ります中に、日数も段々立ちまして三ヵ月近くなりまして、少しは快くなられまして、入湯することになりまして、湯殿までおんぶして参り、私も共々はだかになりまして抱いて入るのであります。

お富ちゃん友だちがのぞきまして笑いましたが、私は笑うどころではありません。 まずこのようになられましたところで、尾高様青木様なども、横田英ばかり永々看病させては気の毒だから、同行の中で代り代りに看病致しますよう、と申されました時の私の喜びはどのようでありましたろう。 決して看病が苦労だからと申す訳ではありませんが、毎日出て居りましてさえ未熟なところを、何ヵ月も看病致して居りましては業の上達することが出来ません。 その病院から伸び上りますと、皆々笛の鳴ります度ごとに通行致しますのが見えますから、とかく伸び上って見ますと、病人がそれを気にかけてむずかしく申されます。

私はこのような心配をしたことはその時までには初めてでありました。 そこで同行の人々一週間交代と申すことに致しましたが、私は休みの時間ごとに見舞いに参りますと、目に涙をためて喜ばれまして、私の参るごとにはばかりにつれて参ることにきめて居られました。 馴れぬ人がおつれ申しますと、痛いとか工合が悪いとか、また人によりますと臭い臭いと申しましたとか、それで私も、参らねばさぞ待って居られるだろうと心配になりますから、一度もかかさず夜分まで参りました。 その内段々快方に向われまして、つかまり立ちの出来るようになられました頃、父君がおいでになりまして、ついに帰国致されましたが、互に泣別れを致しました。 そのお鶴さんは只今ではお雪さんと申されまして、耶蘇の伝道師になって居らるるように承りました。

和田(横田)英は病院と病室,寄宿舎のことをこのように書いています。

参考文献:和田英著 富岡日記  写真提供:富岡市 富岡製糸場

 

PAGE TOP