富岡製糸場の煙突は非公開ですが、近くで見る事が出来ます。

富岡製糸場の主な建物

富岡製糸場の主な建物は、下の図で判るように、東繭倉庫(東置繭所)西繭倉庫(西置繭所)繰糸場の三棟がコの字型に配されています。この三棟は2014年の12月に国宝に指定されました。繰糸場は採光を考慮して南向きに建てられています。 ↓クリックすると画像が拡大されます↓ 富岡製糸場の建物配置図

富岡製糸場 記念碑

創業して半年後(明治6年)に明治天皇の皇太后および皇后が富岡製糸場に行啓されました。この記念碑は、行啓70周年を記念して片倉兼太郎氏(片倉工業3代目)が昭和18年(1943年)に建てられた碑です。 碑には皇后が詠った和歌が刻まれ、いと車とくもめぐりて大御代の冨をたすくる道ひらけつゝ(たくさんの糸車が速く回っている様子は、我が国の繁栄につながるだろう  という意味)という富岡製糸場への期待感が表されています。 また、碑の台座は扇の形をしていますが、これは行啓の際、皇太后・皇后が工女全員に桐の御紋が付いた扇子を配ったことにちなんでいます。 創業間もない時期に皇太后および皇后が揃って富岡を訪れたこと、また和歌の内容からも、いかに我が国が富岡製糸場に力を入れていたかが分かります。

記念碑工事の様子

出典:高崎市史志の会HP(http://www.ne.jp/asahi/histrian/takasaki/img014_4_lb.jpg

記念碑の碑文

碑文は以下の通りです。
元帥陸軍大勲位功一級載仁親王篆額
生絲ハ皇國産業ノ主要品ニシテ海外輸出ノ大宗タリ明治初期當局者ハ生
絲ノ改善ト普及ヲ目的トシテ佛人ブリユーナ等ヲ聘シ富岡製絲所ヲ設立ス
是レ實ニ明治五年十月トナス爾來模範工場トシテ克ク其ノ目的ヲ達成セ
リ此ヲ以テ政府ハ是ヲ民業ニ移シ三井氏原氏ヲ經テ遂ニ片倉氏ノ經營ニ
歸シ業務愈賑ヘリ
惟フニ富岡製絲所ノ歴史ニ於テ特筆スヘキ一事アリ明治六年六月十九日
英昭皇太后昭憲皇太后ニハ赤坂假皇居ヲ發與アラセラレ二十三日富岡
ニ着御翌二十四日當時ノ熊谷縣令河瀬秀治ノ御先導ニテ富岡製絲所ニ行
啓アラセラル當時ノ所長尾高惇忠等ニ謁ヲ賜ヒ特ニ數名ノ練習生ヲ選抜 シ機械製絲ノ實況ヲ台覧ニ供シ奉レリ當時
昭憲皇太后ノ御歌ニ
いと車とくもめぐりて大御代の冨をたすくる道ひらけつゝ
コレニ依ツテ如何ニ行啓ノ思召カ國産奨勵ニ有シタルコトヲ拝察スルニ
余リアラン爾来星霜七十年今ヤ大東亞聖戰ニ際シ國家富強ノ寶將ニ宇
内ニ赫灼タラントス友人片倉兼太郎君予ニ嘱シテ此ノ盛事ヲ不朽ニ傳へ
ント欲シ一文ヲ徴ス仍テ其ノ梗概ヲ掲ケテ後毘ニ誥ク
昭和十八年六月二十日
蘇峰徳富正啓撰 高田忠周書 藤澤群黄刻
この碑は、片倉工業の三代目「片倉兼太郎」の求めに応じ徳富蘇峰(終戦後A級戦犯容疑をかけられてが、老齢と三叉神経痛のためにGHQにより自宅拘禁とされ、後に不起訴処分が下された。)の起案で建られたものです。明治6年6月19日英照皇太后 、昭憲皇太后には赤阪仮皇居を発輿あらせられ23日富岡に着き、翌24日当時熊谷県令「河瀬秀治」の御先導にて富岡製糸場に行啓しました。当時所長「尾高 惇忠」等に謁見を賜り、特に数名の伝習工女を選抜し機械繰糸を見学しました。当時の昭憲皇太后の御歌に 「いと車とくもめくりて大御代の富をたすくる道開けつゝ」これに依って如何に行啓の恩召が国産奨励に存 じたるかが拝察できます。 ここに見事に「いと車・・・・」と富岡製糸場の関係が綴られているます。蘇峰はこの70年間 「いと車・・・」が大きな役割を担い,今後も「いと車・・・」の役割は大きいといいたかっ たので しょう。 昭和18年6月といえば戦争に突入して半年あまり,「いと車・・・」は残念ですが別の方向に利用されることになます。

聖徳記念絵画館壁画「富岡製糸場行啓」

出典:明治神宮崇敬会HP http://sukeikai.meijijingu.or.jp/meijitenno/3206.html
左:皇后(昭憲皇太后)・右:英照皇太后
聖徳記念絵画館壁画「富岡製糸場行啓」(荒井寛方(かんぽう)画)

 

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